2021-7-20

めざせ!下北の「とうだい」

中川 隆浩 (下北を知る会会長) むつ市在住プロフィール

知るは楽しみなりと申しまして・・・司会者(兼主任教授)鈴木健二の口上から始まるNHKクイズ面白ゼミナールを、食い入るように見ていた幼い頃。将来はアナウンサーになるぞ!ニュースキャスター、スポーツ実況もカッコイイな。でも「とうだい」に行くぐらいの頭脳が必要らしい。思いとは裏腹に、小・中・高校と己の学力は上向くことはなく、夢は儚く消えたのだった。

ところが、下北検定を受験したことで人生は思わぬ方向へ展開する。やがて、検定合格者有志の会を率いることになり、人前に出て話す機会が増えた。そして、こう挨拶するようになった。

知識をたくさん持つことは人生を楽しくしてくれるものでございます。

冒頭の鈴木アナの口上の続きである。学歴なんて関係ない、生きてる限り勉強だ!たとえ「東大」を出なくとも、自分の生まれ住んだ土地を愛し、身近に行ける「灯台」を目指そうではないか!

てな、コンプレックス丸出しのこじつけ話から入ったわけだが、三方を海で囲まれた下北半島にはいくつもの灯台があり、それぞれに「灯台にまつわる物語」がある。順を追ってご紹介しよう。

まずは本州最北端の大間埼灯台。マグロのモニュメントの先に見える「弁天島」に縞模様の灯台が建っている。北海道まで最短17.5km、天気の良い日は外に干した洗濯物まで見えるんだとか。

今から約100年前、とある船が漁をしていたところ、弁天像が網に掛かった。村人はこの授かり物に大喜び。初めは島にお宮を造ったが、国で灯台を建てることになり、やむなく四十八館(しじゅうやたて)という小高い丘に祠を移した。ところが、弁天様は村人たちの夢枕に立ち「ここは私の嫌いな蛇がいて困る」と大激怒。再び祠を島に戻し祀ったことから「弁天島」と呼ばれている。

次は下北半島東の果てに建つ、白亜の尻屋埼灯台。津軽海峡と太平洋の潮がぶつかる「海の難所」として船乗りたちから恐れられてきた。国内有数の高さを誇る東北地方初の洋式灯台は140年以上の歴史がある。放牧された寒立馬(かんだちめ)が草を食む姿はとっても愛くるしい。

1945年7月14日、尻屋埼灯台は空襲に遭い、無線通信室にいた村尾常人さんは砲弾を浴びて42歳の若さで亡くなった。終戦の翌年の夏、未だ復旧していない灯台から夜な夜な灯がともる、という噂が立つ。ところが、仮設の灯台ができるとそれらの話はピタリと止んだ。以来、この灯りは村尾さんの魂(たましい)ではないかといわれ、「幻」の灯台として語り継がれている。

そして陸奥湾に浮かぶ鯛島。どうやってもクジラが潮を吹いているようにしか見えないけれど、灯台の名称は陸奥弁天島灯台で、ここでも弁天様が大活躍。7月下旬から10月末まで観光遊覧船「夢の平成号」が脇野沢港から出ており、島に上陸することができる。

今から約1200年前、征夷大将軍・坂上田村麻呂は村の娘と恋に落ちた。娘は身ごもるも、将軍は娘を置き去りにして都に帰ってしまう。やがて娘は将軍の子を産むと、自ら命を絶ってしまった。村人たちは娘の亡骸を鯛島に葬るが、船の難破が相次ぎ、娘の祟りだと恐れられた。それから500年ほど後、戦に破れ逃れてきた藤原藤房なる者がこの話を聞き、天女の像を彫り弁財天を祀ると祟りは治まった。しかし、今でも鯛島のワカメは娘の髪の毛だから獲ってはならないという掟がある。

さて、おまけにもうひとつ、東通村と六ヶ所村との境界に白糠灯台(物見埼灯台)が建っている。ここにもとっておきのエピソードがあるのだが、それは別の機会に話すとしましょうか。

最後に、オススメは路線バスの旅。BGMは、山本コウタローとウィークエンド「岬めぐり」で!

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\ この記事の著者 /

中川 隆浩(なかがわ・たかひろ)

下北を知る会 会長

むつ市在住

むつ市生まれ。
下北地域の自然、文化、歴史について学び、それを活用して広く地元の人や観光客に知ってもらうことを目的に、平成21年に「下北を知る会」を結成する。
これまでにご当地検定「下北検定」や、まちあるきガイド「田名部の夜のまち歩き」などを実施している。

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時代を乗り越えた下北の歴史の象徴

佐藤史隆 季刊あおもりのき発行人

青森県内には21棟の灯台があり、そのうち下北半島には6棟あります。 中でも東通村の尻屋埼灯台は、明治時代初期に建設された歴史のある灯台です。 中川隆浩さんが下北自慢エッセイで記している“幻の灯台”のお話が、とても気になります。破壊されたはずの灯台からなぜ光が放たれたのか、その真相は定かではありませんが、地域とそこに暮らす人びとの深いつながりを示すエピソードのように思えるのは私だけでしょうか。