2021-7-30

時代を乗り越えた下北の歴史の象徴

佐藤 史隆 季刊あおもりのき発行人プロフィール

<今回の深掘りキーワード>
「尻屋埼灯台」

青森県内には21基の灯台があり、そのうち下北半島には6基あります。

中でも東通村の尻屋埼灯台は、明治時代初期に建設された歴史のある灯台です。

中川隆浩さんが下北自慢エッセイで記している“幻の灯台”のお話が、とても気になります。破壊されたはずの灯台からなぜ光が放たれたのか、その真相は定かではありませんが、地域とそこに暮らす人びとの深いつながりを示すエピソードのように思えるのは私だけでしょうか。

■尻屋埼灯台が持つ歴史的価値と魅力

筆者は尻屋埼灯台を詳しく知るべく、下北半島北東端にある東通村へと車を走らせました。筆者が住む青森市からおよそ2時間半の道のりです。

尻屋崎では、28頭の寒立馬が草をはみながら迎えてくれました。

太平洋と津軽海峡を見つめるように建つ尻屋埼灯台。白亜の外壁が真夏の太陽光を浴びて、まぶしく光っています。

尻屋埼灯台を称する言葉を記してみました。

「レンガ造りとして日本一高い灯台」(32.82メートル)

「東北地方で最初の洋式灯台」(1876(明治9)年)

「日本で初めて霧鐘を設置」(1877(明治10)年)

「日本で初めて霧笛を設置」(1879(明治12)年)

「日本初の電気灯(アーク灯)灯台」(1901(明治34)年)

「日本の灯台50選に選出」(1998(平成10)年)

「近代化産業遺産」(2008(平成20)年)

「登録有形文化財(建造物)」(2017(平成29)年)

「全国に16しかない参観灯台」※参観灯台=展望台に上れる灯台

などなど。

尻屋埼灯台が全国的に見ても高い価値を持つ灯台であることがわかります。

尻屋崎突端から太平洋と津軽海峡をのぞむ

■いきさつ~斗南藩の人びとの懸命な働きかけがあった

尻屋崎近海は、古くから航行の難所として知られ、海難事故が多数起こっていることから“難波岬”とも呼ばれていました。暖流と寒流の合流地点にあたることで潮の流れが変わりやすいこと、春から夏にかけて吹く「ヤマセ」が濃霧を呼ぶこと、秋になると強い西風が吹き付けることなどがその要因とされています。

尻屋埼灯台が建設されたのは、1876(明治9)年のこと。

明治期になり政府は、国策として国際的な貿易を活発化させることを目的に、日本各地で灯台の整備を展開し、尻屋崎も建設地として選ばれました。そこには、会津からこの地に移り住んだ斗南藩の人びとの熱心な働きかけがあったといわれています。灯台ができ、航行の安全が図られることで、港が活性化し、厳しい生活からの脱却につながると考えたのです。

■建設~ぜひ知ってもらいたいレンガを取り入れた先進性

尻屋埼灯台を設計したのは、「日本の灯台の父」と称されるリチャード・ヘンリー・ブラントン(1841-1901)。イギリス出身の技術者で、明治政府に灯台建設主任技術者として雇われました。灯台建設を指揮した7年半の間に、千葉県銚子市の犬吠埼灯台(国重要文化財)など全国各地26基の灯台の建設に関わっています。

見どころの一つは、尻屋埼灯台を形成する「レンガ」です。

尻屋埼灯台は、レンガの積み上げが二重になった構造をしており、頑丈さと耐久性を兼ね備えています。

明治時代初期、レンガは建材としてまだ珍しいものでした。どうやって調達したのか。レンガ建築の先進地だった函館から持ってきたという説もありますが、絶対的な根拠に乏しく、生産地は“不明”とされていました。

しかし近年、レンガの成分調査などから、現地で作った可能性が高まってきました。とは言え、レンガ作りには技術を要します。しかも灯台は円筒形の建物だけに、使用するレンガは円筒形に組み合うように作らねばなりません。それだけに、地元産であることが証明されたならば、下北のレンガ建築における先進性を示すことになります。

ちなみに、県内で洋⾵の建物が多い弘前市で洋⾵建築が建ち始めたのは、明治時代後半のことです。事業家・福島藤助が建てたレンガ造りの醸造所(現在の弘前れんが倉庫美術館)は、当時としては珍しいものでした。尻屋埼灯台の建設は明治9年なので、こうした⽐較からもその先進性が窺えます。

尻屋埼灯台は灯台内の見学もでき、実際のレンガの建築構造を見ることができます。(令和3年7月現在、見学中止中。見学再開日程は未定)。また、敷地内では実際に使用されたレンガを使って紹介しているので、明治初期に為された精緻な技術をぜひ確認してみてください。(下写真)

■灯台建設を支えた地元の名士

尻屋土地保全会の住吉秀明会長にお話を伺いました。

住吉家は尻屋に中世から続く家系と伝えられています。この地で代々、集落の代表の役目を担っていたことが古い文献にも記されています。

客人が来た際には、泊めたり、もてなしたりする「賓家(ひんけ)」と呼ばれる家系でした。江戸時代、伊能忠敬が測量に訪れた際も住吉家に泊まっています。

尻屋埼灯台建設時には、職人たちが泊まっていたそうです。

尻屋土地保全会の住吉秀明会長

住吉会長も漁師であり、灯台は大切な存在であり続けています。

「現在は、GPS装置で漁場や船の場所を確認できますが、普及する前は、灯台を頼りにしていました。厳しい自然環境を仕事場とする漁師にとって、安心感を与えてくれる存在でした。夜間の漁業者や航行者にとってはなおさらだったと思います」

そして「これからも海を行く者を見守ってくれながら、地域観光の柱としての役目を担い続けてくれるのだと思います」と感謝の気持ちと共に、未来へ向けて期待を寄せます。

■最後に

灯台の周辺では、寒立馬がいたり、季節の小さな草花たちも目を楽しませてくれます。海岸や小沼には珍しい鳥たちの姿も見られます。海岸線にある数々の奇岩など、自然風景を見て回るのもおすすめです。

また、黒石出身の鳴海要吉文学碑などの石碑は、この地に関わった人々の思いを私たちに伝えてくれます。

尻屋埼灯台の前に立つと、白く美しい立ち姿が目に焼き付けられることでしょう。そして、レンガ積みの技術に感動を覚えずにはいられません。厳しい時代、厳しい環境の中だったからこそ、技術が注がれ、先進的でもありました。そして、地域において心のよりどころとして、今も大切にされています。

人と自然の関係や、下北の歴史を象徴するもののように筆者は感じています。

\ この記事の著者 /

佐藤 史隆

季刊あおもりのき発行人

1972年青森市生まれ。青森高校、東海大学文学部卒業。帰郷後、地域誌「あおもり草子」編集部へ。2019年冬「ものの芽舎」創業。2020年12月あおもり草子後継誌として「季刊あおもりのき」を創刊。NPO法人三内丸山縄文発信の会(遠藤勝裕理事長)の事務局としても活動。2022年4月には、青森県の馬に関する歴史・民俗・産業などのあらゆる事象を研究するあおもり馬事文化研究会(笹谷玄会長)を立ち上げた。ちなみに佐藤家のお墓はむつ市川内にあり、毎年家族で墓参りをしている。

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