下北人SHIMOKITA-BITO

世界に羽ばたく民芸品、ヒバかご

ヒバ素材は、素朴でありながら澄んだ輝きを放つ。またヒバの最も魅力的な特徴は、その香りにある。アロマや芳香剤などにも利用され、天然の優しい香りには癒しの効果もある。また、建材としても最高級の木材の一つとして「青森ヒバ」は知られている。
ここ下北半島・大畑のヒバに、新しい価値を吹き込み新たな民芸品を作っているヒバ名人がいる。かご職人、柴田円治さん。

下北半島には、日本三大美林の一つに数えられる「青森ヒバ」の林がある。青森ヒバは、厳しい寒さ、風、雪に耐えてゆっくりと成長し、緻密で美しい木目を持つ。強い抗菌作用のある「ヒノキチオール」を多く含み、カビ、ダニ、シロアリを寄せ付けない、腐りにくい優れた木材だ。その特長を活かして、多くの寺社仏閣などに利用されてきた。代表例として知られる国宝の中尊寺金色堂(岩手県)は、900年を経た現在でも、建物の7割以上が建築当時のヒバ材を引き続き使用しているという。現在ではヒバ資源が大きく減少し、高価な資材となっているが、いまだ根強い人気がある。

柴田さんは、このヒバを製材するときに出る端材を、薄いテープ状に加工し、一つ一つ丁寧に編み込み、かごを作り出している。柴田さんのヒバかごは、下北だけでなく、東京でも販売され、多くの方に支持されている。近年では、パリで行われた展示会にも出品され、今や世界に羽ばたく工芸品だ。

ヒバの癖を見抜き加工する技術

柴田さんのヒバかご作りの工房を見学させていただいた。 まずは材料となるヒバのテープを作る作業場。板を電動のカンナで薄くスライスしていく。編むかごの大きさによって、幅や厚さを調節する。その精度は100分の1ミリ単位だ。スライスしてできたヒバのテープは、しなやかだが丈夫で、曲げることもできる。
厚さの調節を少しでも間違うと、曲げることはできず、折れてしまう。かごの角の部分を編むときには、さらに曲げやすくするために、湿らせて使う。
「この部分は硬くて使いにくいんだよ。」
と、できたテープの一部分を指さして語る柴田さん。

しかし、素人が見ただけでは違いがわからない。実際に触らせてもらうと、確かにその部分だけ硬い。
柴田さんいわく、ヒバは「癖のある木」だという。見た目は大変きれいだが、同じ木の中でも、柔らかい部分と、硬くてノコギリも入らないような部分が混在していることもある。昔からヒバは大工泣かせの木と呼ばれている。個性あるヒバの質を見て、かごを編むのに適した幅、厚さに調節するのは、長年取り組んできた柴田さんだからこそできる熟練の技だ。

独自の研究により生み出した、編む技術

かごを作る作業場は、自宅内の一室にある。
ヒバのテープを並べ、手際よく編んでいく。普段は柔和なおじいちゃんという感じの柴田さんだが、作業が始まると職人の眼差しに変わる。作業は驚くほどのスピードで進んでいき、わずか4時間ほどで美しいかごに仕上がる。一番難しいのは角の部分で、失敗すると木が折れてしまう。
現在は手際よく編むことができるが、最初は苦労し、編めるようになるまで何年もかかったという。

柴田さんの父は、竹細工の里として知られる岩手県一戸町鳥越地区の出身。父の手伝いをするうちに、木工の技術が自然と身についた。しかし、現在のような角があるかごは難しく、なかなか編めなかった。
「実は、これが先生なんだよ。」
と出してくれたのは、竹でできた行李(衣装などを入れるかご)。よく見ると、数字が書いてある。これは、柴田さんが行李を見て、どのように編まれているか研究した跡だ。行李を参考にしながら、独学で現在のヒバかごを生み出した。

ヒバを知り尽くしたヒバ森の名人

癖のあるヒバの質を見極め、美しいかごを作り出す柴田さん。その技術のベースになっているのは、もうすぐ70年にも及ぼうという、下北の山での経験だ。
柴田さんは1933(昭和8)年に大畑で生まれ、学校を卒業して16歳の時から山で父の製炭などの仕事手伝うようになった。そして、身に付けた知識を買われて、20歳の時に大畑営林署の職員となった。

営林署での仕事は、ヒバ施業実験林の管理。ヒバは成長が遅く、無計画に伐採すれば資源が枯渇してしまう。将来にわたって持続してヒバ材を利用するためには、大中小老幼のヒバの木が混じり、伐採しても次の世代が自然と育つ林を作り出す必要がある。実験林はそのような理想的な林を生み出すための実験場所として国が設定した。その広さ、約220ha。

実験林で柴田さんは、植樹や伐採を行い、どのような手入れをして、どのくらい伐採をすれば、良い林ができるかの検証に携わった。人間が理論的に手入れを行っているつもりでも、必ずしも計画通りにヒバが豊かになるわけではなく、試行錯誤の連続だ。
柴田さんは定年まで40年間従事し、退職後も、実験林の木を伐採するときには選木作業を担ってきた。

「一つの山をこれだけ長く守ったっていうのは、俺くらいしかいないんじゃないかな。」
と柴田さん。長年に渡りヒバ森を守り育て、その功績は高く評価され、まさにヒバを知り尽くしたヒバ森の名人なのだ。
薬研温泉の奥に位置する実験林には、遊歩道があり、案内板も整備されている。訪れた人は誰でも、柴田さんが育ててきた森を見ることができる。かつて、山から切り出した木を積みだすために使われていた「森林鉄道」の貴重な線路跡も残っている。

「理想の林」への土台は、次の世代へ

インタビューの最後に、青森ヒバの将来について話を向けると、長年携わってきたヒバの実験林に思いをはせ、語ってくれた。
「昔のやり方で木を伐っていけば、どんどん木が減ってしまって次につながらない。ヒバの林は、全部伐ってしまえば元に戻るのに200年かかる。そうではなく、順繰りに木を伐って、次の木が成長できる、そんな林が理想。」

人間にとって85年は長く感じるが、200年も300年もかけて育つヒバにとっては短い。実験林はまだまだ成果を見極める途上にある。
「俺がやってきたのは土台づくり。ヒバが見直されている今、需要が減っていることも後押しになって、切りすぎず、適正な管理がやりやすい状況になっていると思う。これからの人たちが、理想の林を作り上げることを期待したいな。」
85歳になった柴田さんだが、仕事への意欲は絶えない。ヒバのかごの人気は高く、注文がひっきりなしに入る。近年は、その技を受け継ぎたいという人も現れ、講習会も行っている。唯一無二のヒバかご職人の手は、明日に向かって木を編み続ける。

※追記
柴田円治様は2024年2月にご逝去されました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

Text : 園山和徳  Photograph :ササキデザイン 佐々木信宏