本州で最も北にある温泉街、下風呂温泉郷。そのはじまりは室町時代までさかのぼるといわれる。下風呂という地名の語源は、アイヌ語の「シュマ・フラ(臭い岩)」であるとされている。その言葉の通り、下風呂には常に硫黄の香りがただよっている。窓を閉め切った車で下風呂を通過するときですら、硫黄の香りを感じることがしばしばある。
下風呂温泉は刀傷にも効果があると言い伝えられており、江戸時代以前にも多くの傷ついた人々が訪れた。現在のように旅館が建ち並ぶようになったのは明治時代のようだ。その明治時代から続いている旅館、まるほん旅館を切り盛りするのが、大女将の長谷津恵子さんと、娘で女将の長谷雅恵さんだ。
「ここのお湯はね、本当にいいお湯なんですよ。この前来たお客さんも、全国津々浦々巡ったけど、ここは三本の指に入るなんていってくださって。」 と津恵子さんは笑顔で話す。人々に癒しを与え続けてきた、自慢の温泉だ。
「慣れたお客様だと、源泉の違いを楽しむために、2泊を別々の宿に予約なさるんですよ。今日はこの宿のお湯、次の日は別の宿のお湯。そして昼間は公衆浴場の大湯や新湯をめぐって楽しむんだそうです」
下風呂温泉に宿泊した人限定で、「湯めぐり手形」を購入することができ、複数のお湯をハシゴして楽しめる。
下風呂温泉ならではの楽しみ方だ。
温泉の効能によって、傷や病気を治す「湯治」。現在はずいぶん減ってしまったが、室町時代から、下風呂温泉には多くの人が湯治に訪れている。
「昔は本気で体を治そうっていう湯治の方ばかりいらっしゃって。長い時には20日、短くても10日か2週間は滞在して、治して帰っていかれました。」 津恵子さんは昔を思い出して語る。湯治にもやり方がある。最初は1日2回くらいお湯に浸かって、徐々に体を慣らしていく。だんだん入浴回数を増やして何度もお湯に浸かり、帰る前の数日は徐々に回数を減らしていく。下風呂には複数の源泉があるので、最初数日は新湯に浸かって、体が慣れてから大湯に浸かり、帰り際にはまた新湯に浸かる、といった順番もある。
湯治の期間中は、体を冷やしてはいけないので、お酒は厳禁。雅恵さんいわく、「入院していると思って体をいたわるのが大切」だそうだ。
湯場に掲げてある「湯治十戒」、しゃんとして読み進めていくと、「帰宅しても一週間は交わるべからず」とある。ちょっとしたユーモアに心も緩む。
「不思議なことに、湯治のお客様は3日目くらいに食欲がなくなって、元気がなくなる。傷も痛みだすんだそうです。湯疲れするんでしょうね。それを乗り越えるとどんどん良くなって、最終的に元気になって帰っていく。」と雅恵さん。とはいえ、忙しい現代で、2週間の休みを取って湯治に出かける、というのはなかなか難しい。そんな時代だからこそと、津恵子さんは優しく話す。
「今の時代はね、1日泊まっていく人には、何にも考えないで、お湯に浸かって休んでくださいって言いますよ。おいしい海の幸を食べて、ゆっくり休めばそれもいいことなんですよ。」
雅恵さんは、下風呂温泉郷の9軒の旅館の女将で組織する「下風呂温泉おかみの会」の会長も務めている。下風呂温泉を盛り上げようと、視察に出かけて学んだり、新たな名物を試作したりと、さまざまな村おこし活動を行なっている。
おかみの会では、下風呂の温泉がどのように体に効くのか、湯治の効果を調べようと、補助事業を申請して調査を行った。温泉によく入る人、入らない人をサンプリングして、血液などを調べた。その時の調査では、日常生活の中で行う温泉の効能分析となってしまったことから、生憎有益な情報は得られなかった。
しかし、調査事業を行ったことで、専門家と協力体制ができたので、近い将来、再調査ができればと考えている。
「体がどのように変化するか調べるツアーを企画するのも面白いですね。なんだか実験台みたいだけど、興味を持つ人もいるんじゃないかしら」と雅恵さん。
いかに優れた温泉といえども、過疎化による担い手不足などで、休業する宿もあり、このまま手をこまねいていては衰退していくばかり。アイデアを出し合って、良かれと思うことは挑戦して、半歩先の未来を変えていかなければならない。下風呂温泉が古くから受け継いできた湯治の文化を、後世に伝えていくために。
「下風呂は下風呂で、田舎は田舎で、その場所らしさを活かしていくのがいいですよ。お客様もそのままがいいっておっしゃる」 と津恵子さんは話す。
親子で力を合わせて下風呂の文化を受け継いできた2人の手。これからも訪れるお客様の心を、優しく包みこんでいく。
長谷津恵子様は2021年3月にご逝去されました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。