2022-7-15

死者を想う場所 聖地・恐山

恐山菩提寺院代 南 直哉さんインタビュー

■古くから仏の慈悲への信仰心が根付いている下北地方の風土

恐山菩提寺院代 南 直哉さん。恐山宿坊「吉祥閣」にて

―まず、恐山や下北地方の信仰についてお聞かせください。

恐山は伝承によると、862年にこの地にたどり着いた天台宗の僧侶、慈覚大師円仁(じかくだいし えんにん)が開いたとされています。やがて、1500年代前半に曹洞宗の僧侶が今のむつ市に円通寺を開基し、荒廃した恐山の様子を見て再興を決意して以来、円通寺が恐山を管理するようになったといいます。
しかし、恐山についての歴史的資料は戦乱や災害により失われているために、正確なことは分かりません。資料が存在する江戸時代より前のことは、伝承によるものです。ただ、現在も下北地方には仏の慈悲に救いを求める「地蔵講」「婆々講」と呼ばれる風習があり、仏の慈悲への信仰心が風土として根付いていることは間違いありません。

■幽霊や霊魂ではなく「死者」と出会う場所

荒涼とした風景が広がる

―恐山といえば、怖い場所というイメージがあるようですが……

恐山に初めていらっしゃる方はたいてい、恐山に対して、荒涼とした風景やイタコさんなどのイメージをあらかじめ抱いています。その中で最も多いイメージが、幽霊が出る怖い場所、というものです。霊場恐山というくらいですからね。
ところが、実際にここを訪れた方のほとんどが、「怖いと思って来たんだけど……」と拍子抜けしたようにおっしゃいます。そして、「なんだか懐かしい気持ちがする」とさえ言うのです。
どうしてそのような反応になるのかというと、実は恐山には、「死者」が私たち「生者」とは違う形で存在しているからです。そしてそれは、幽霊や霊魂とは全く別のものなのです。

「死者」は、場合によっては、生きている人間よりもリアルに存在しています。私は、これまで、死者との関係で苦しんでいる人にたくさん出会ってきました。例えば、ある80歳過ぎのおばあさんは、両親がずっと前に亡くなっているのにも関わらず、両親との関係にずっと悩み続けていました。
また、ある時には、中学生から「霊魂ってあるんですか?」と質問を受けたことがありました。詳しく聞くと、その子は最近おじいさんが亡くなったのだそうです。しかし、「あなたのおじいさんは、霊魂とか幽霊になったと思いますか?」と聞くと、「思わない」とのこと。つまり、亡くなってもなお、その子の中にはおじいさんが「死者」として存在していたのです。恐山は、こうした「死者」がいるところなのです。

もっとも、恐山を訪れたからといって、こうした死者と直接出会うことはできません。死者と出会うためには、生者自身が記憶をもとに死者の存在を立ち上らせて、生前とは異なる形で新たな関係を築く必要があります。この、関係を築くことを「弔い」といい、私たち僧侶や寺院は手助けする役割を担っているのです。

■葬儀では治まらない気持ちを掬う場所

歩くと、人々の思いが込められた場所であることを実感する

―弔いと聞く、葬儀のことが思い浮かびます。

ある時、半年前に母親を亡くしたという県外のご婦人から、「葬儀をし、毎日お墓にお花も供えているのに、なぜこんな所まで来たくなってしまうのでしょうか」と声をかけられたことがあります。「こんな所まで」とは、なんと失礼な(笑)と思いつつも、その気持ちはよくわかります。例えば、遺族によって亡くした方に対する思いは異なりますし、最近では大きな災害によって、大切な人と、突然切り裂かれるように別れを迎える場合もあります。こうした様々な感情は、葬儀で全て掬(すく)い取れるものではありません。
その場合、遺族には抱えている感情の置き所のようなものが必要になります。死者と死に対する感情を開放する場所、それが霊場恐山なのだと思います。

■恐山は「パワーレススポット」。何もない場所だから感情を受け止めてくれる

―南院代は著書などで「恐山はパワーレススポット」と述べていらっしゃいますね?

以前、ある全国紙で日本のパワースポット10選という企画があり、その結果、1位に伊勢神宮、2位に恐山が選ばれていました。伊勢神宮は神様がいてパワーを発揮していますから1位になるのはわかります。しかし、恐山はどうなのでしょうか?
私は逆に、ここに人が集まるのは、パワーがあるからではなくて、何もないからではないかと考えています。先ほど私は、恐山を死者と死に対する感情を開放する場所だとお話しました。しかし、感情を開放しようとしているのに、パワーが満ちているのでは感情の置き場がありません。だからこの場所は空っぽでなくてはなりません。空っぽであり、ブラックホールのように感情を巻き込んでくれる場所、むしろ恐山は「パワーレススポット」なのだと思います。

■遠い下北半島までの距離が、自身と向き合う時間を与えてくれる

地獄を表すごつごつとした岩場を抜けると、視界が開け、
宇曾利湖が眼前に広がる。こちらは極楽浄土を表すという

―より多くの方に恐山にいらして欲しいですね。でも、遠い印象があります。

恐山のもう一つの重要な要素は「遠い」、ということにあります。青森県外から訪れる方は、特に遠いと感じていると思います。
実はこうした距離が大切なのです。恐山には、観光で訪れる方も多いのですが、もともと霊場とは、何らかの動機・覚悟を持って訪れる場です。また、霊場へと向かう長い移動時間は、死者への想いを抱える時間だと考えています。じっくり自分の悩みや感情と向き合うこと、そして、非日常の場にわざわざ訪れているという感覚が、訪れる人に何らかの答えを与えてくれます。多くの霊場が山中など離れた場所にあるのは、そうした理由によるものです。
本州の果ての下北半島の山中、深い森に包まれた霊場恐山に時間をかけて足を運び、何かを感じていただければと思っています。温泉も湧いています。いらした際には、恐山の湯にゆっくりと漬かり、旅や心の疲れを癒してください。

恐山は幽霊や霊魂ではなく、「死者」に会う場所、向き合う場所だとお話ししました。
実はこの「死者」は他者ではなく、自分自身の姿でもあります。なぜなら、私たち誰もが、いずれは死を迎えるからです。
忙しい現代社会において、生きている私たちが、じっくり自身の死を思う機会はなかなかないのかもしれません。しかし、「死」は人生の一部でもあります。恐山が存在する決定的な理由は「人が死ぬということを忘れないため」というところにあります。
ただし肉体を失ったとしても、生者との対話を通じて「死者」は存在し続けます。死や死者を思い、「生」の一部として存在させ続けることが、霊場恐山がもたらす「救い」なのかもしれません。

(聞き手:ものの芽舎・佐藤史隆、写真:菊池敏)

南 直哉(みなみ じきさい)
1958年、長野県生まれ。禅僧。恐山菩提寺院代(住職代理)。福井県の霊泉寺住職。曹洞宗・永平寺で約20年間修行生活をおくり、2005年より恐山へ。
著書に『老師と少年』『恐山 死者のいる場所』(新潮社)、『「正法眼蔵』を読む』『善の根拠』(講談社)など多数。

◇恐山/恐山菩提寺
住所/青森県むつ市田名部宇曽利山3-2
本坊/曹洞宗円通寺(青森県むつ市新町4-11)
開山期間/毎年5月1日~10月末日
開門時間/6:00~18:00(大祭典・秋詣り期間は別設)
恐山大祭/7月20日~24日
秋詣り/10月の体育の日が最終日となる3日間(土・日・月)
入山料/個人:1人500円 小・中学生:1人200円
    団体:1人400円(1団体20名以上)
祈願・供養時間/6:30~ 11:00~ 14:00~
問合せ/恐山寺務所TEL:0175-22-3825(代)・宿坊TEL:0175-22-3826
アクセス/JR大湊線で野辺地駅から下北駅まで60分。下北駅から恐山まで下北交通バスで45分。タクシーで25分。