2022-6-30

福浦の歌舞伎の里を訪ねて

グラフ青森 青森の暮らし編集部プロフィール

2019年4月10日の春祭りで上演された福浦の歌舞伎
(演目:一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき))
 写真/佐井村役場

<今回の深掘りキーワード>
「福浦の歌舞伎」

マサカリ型の下北半島の刃の部分に位置し、津軽海峡に沿って南北に細長く形成された佐井村。役場所在地の佐井地区から離れた旧長後村以南の地域は、山が海岸線まで迫る断崖絶壁が続いています。その間のわずかな平地に漁村集落が点在しており、最南端に牛滝地区、その北隣に福浦地区があります。

これらの漁村集落は、特に古い時代においては、周辺地区との往来が困難という地理的要因が背景にあるコミュニティーでした。そのことが影響しているのか、独特の習わしがいくつも生まれています。祈りを尊ぶ、まさに『祈りの半島』の主要地域のひとつ。もっと深く知りたいと、今回は「福浦の歌舞伎」に注目しました。

「福浦の歌舞伎」は、全国的にも珍しい漁村歌舞伎です。福浦地区の住民が明治時代に上方役者から教わり、今に伝える手作り芝居で、娯楽が少ない小さな集落においては宝ともいえる存在。住民たちは、この宝を130年もの長きにわたり守ってきました。その歴史や文化を肌で感じようと、現地を取材してきました。

■福浦の歌舞伎の歴史

上方の歌舞伎役者であった中村菊五郎が佐井村にやってきたのは、1887年(明治20年)のこと。一座の争いを逃れるため村に住みつき、矢越地区などで漁師たちに歌舞伎を教えたといいます。福浦地区の漁師たちはこれを知って自分たちにも教えてほしいと懇願し、1890年から2年ほど、指導を受けたと伝えられています。

当初は口伝えで、世襲により10演目が伝えられていたという福浦の歌舞伎。強い地元の訛りが入り、教える方も教わる方も何と言っているのかわからない言葉もあるそうで、この訛りはローカルである福浦の歌舞伎の特徴のひとつとも言われているそうです。

教わったものを伝えなければと、住民たちは稽古に励み、盆正月や祝いの席で演じてきました。しかし戦時中や都会への集団就職があった頃などは存続の危機に直面し、さらに後継者不足も深刻になってきたことから、次代へしっかりと残していこうと1971年(昭和46年)、「福浦芸能保存会」を設立。以降世襲制を緩和し、稲荷神社の春祭りでの年に一度の定期公演の場を設け、一般客にも向けた上演を毎年欠かさず行うようになりました。さらに村内外のイベントなどでも上演し、評価を受けるようになったことで、1984年(昭和59年)、青森県無形民族文化財に指定されています。

1999年(平成11年)には、舞台設備の整った村複合施設「歌舞伎の館」が完成。これを拠点として、現在は保存会4代目の田中均さんを中心に活動を続けています。ここ10年で後継者不足はさらに深刻化、さらにパンデミックの影響で3年ほど公演中止を余儀なくされている厳しい状況下ではありますが、伝承に力を入れる保存会や村の志に変わりはありません。来年の4月には公演を再開できるよう、準備に力を入れているというから楽しみです。

「歌舞伎の館」入口付近に設置されているモニュメント

■福浦芸能保存会会長・田中均さんのストーリー

今回の取材でお会いさせていただいた福浦地区の漁師・田中均さんは今年で61歳。今から約40年前、21歳のときに初めて福浦の歌舞伎に関わりました。地区の男性は学校を出たら歌舞伎をやるということが決まり事であったなか、例外なく保存会のメンバーに入った田中さん。「言ってしまえば、そのときはとにかく恥ずかしいからやりたくなくて。それは私だけではなく、同年代のそのとき年頃だった人たちはみんなそうでしたよ。だから逃げていたんですけどね、最初は」と、笑いながら当時を振り返ります。「やらなくてはならないから、練習して。だけどもやっぱり嫌で嫌で。23歳から10年くらい、村を出ました」。それでも、村に戻ってからは徐々に本格的に取り組むようになったといいます。「最初にやったのは『義経千本桜』だったかな。その二幕目に出てくる、家来をつれてくる人の役です。私の父がその役をやっていたので。そのときはまだ、世襲が多かったですからね」。

田中さんが福浦芸能保存会の会長になったのは、それから約10年後の43歳のときのこと。そのときには、会は歌舞伎の館を拠点として、一般客を入れた公演を精力的に行うようになっていました。「春祭りのほかに、地元の食と歌舞伎を同時に楽しむ食談義を、多いときには夏、秋、冬と年に3回、開催したときもありました」。当時の演者はみな地元の漁師であったため、食も歌舞伎も、漁師の自慢の出し物ということになります。これには、地区外からきたお客は大喜びだったといいます。「ゲラゲラと笑えるおかしいシーンなんかは、会場が一体になった気がして。お客さんに喜んでもらうたび、やってよかったなと思いましたよ」。

2010年2月20日に行われた食談義の様子
写真/佐井村役場

観客が地区の住民だけだった頃は、間違えたら大変だという緊張ばかりだったという田中さん。それが、外からのお客さんに観てもらえるようになってからは、「観に来てくれた人に楽しんでいってもらいたい」という気持ちが大きくなっていったのだそうです。

2019年4月10日の春祭りで上演した三番叟
写真/佐井村役場

そんな田中さんが、今、この活動に感じる想いは「福浦の歌舞伎を保存していかねばならない、それだけかな」とのこと。「伝承という意味では、今後地区内に伝えていける人はほとんど見込めません。そればかりか、今の人数でも、福浦の歌舞伎の特徴のひとつである、さまざまな演目を上演するということが困難になっています。少ない人数でできる演目しかできない、化粧や衣装の交換に時間がかかるから1度に複数の演目をできない。そんな状況でも、なんとか続けていかなければと」。福浦の歌舞伎を続けていくことは、住民みんなの願いでもあります。だから田中さんは、前を向きます。「今、私たちは教えていける状況にはあります。だから、福浦地区内だけでなく、村内まで広げて広く声をかけています。もちろん、村外の人でも、やりたい人であればどなたでもかまいません。そうして、福浦の歌舞伎を後世につないでいきたい」。代々福浦で受け継いできた、立派なセットや、小道具。それに何より、目に見えない住民たちの福浦の歌舞伎への想い……。それらを大切に、これからに向けて、やるべきことを考えているそうです。

2019年の春祭りにて、福浦芸能保存会4代目会長の田中均さん
写真/佐井村役場

「まずは、来年4月の春祭りの再開。それから、食談義もいつか復活できたら嬉しいですね」。

■神秘の絶景がバックボーン、佐井村福浦地区

最果ての地で待っていたのは、山がせまる漁村の風景と、自然が創り出した神秘的な絶景。そのなかで営まれる福浦の日常を感じながら、いくつかのスポットに立ち寄りました。

歌舞伎の館は、現在は公演が行われるときのみ、入ることができます。

福浦の歌舞伎の芝居小屋「歌舞伎の館」

漁師一家のお母さんが、約50年、切り盛りする「仏ヶ浦ドライブイン」。佐井村特産のウニを使った生ウニ丼が味わえることで有名です。取材に行った6月はウニの旬の時期なはずでしたが、なんとその翌日から漁の予定とのことで味わえず。代わりにおすすめされたのは、地元で獲れるそのときどきの魚介などを使った海鮮丼でした。どんぶりはもちろんのこと、ふのりの味噌汁やタコの刺身もとても美味しくいただきました。

漁師を家族に持つお母さんが営む「仏ヶ浦ドライブイン」

仏にちなんだ名前がつけられた巨岩・奇岩が立ち並ぶ「仏ヶ浦」は、下北を代表する絶景スポット。その眺望を崖の上から楽しめる展望所が、福浦地区から数分ほどの国道沿いにあります。

国道沿いの駐車帯にある展望台から望む「仏ヶ浦」

遠くても、立ち寄れるスポット数が少なくても、また会いに行きたくなる。福浦は、思い出に残る魅力に満ちた場所でした。

〈執筆〉
グラフ青森 青森の暮らし編集部

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グラフ青森 青森の暮らし編集部

本誌は1975年の創刊以来、地域に住む人々の生き甲斐や思いを伝えております。将来に残したい文化や歴史、それを守る人々、地域を元気にしたいと活動する人、豊かな自然など、青森ならではの地域に根ざした内容です。
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